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創作版画集『村の版画』に想うこと

小生、創作版画並びに川上澄生を再び注目している。

38年前の学生時代は、愛知県岡崎市生まれの山本鼎の創作版画『漁夫』から入門したが、最近は地域コミュニティとの関係から生まれた『村の版画』(1925年刊)を特に気にしている。

*出典:宇都宮美術館「版画をつづる夢」2000年の『村の版画』通巻第一号(1925年)表紙

山本鼎といえば、あのキリンビールの麒麟のラベルを小口木版で彫り上げた人という方が分りやすいだろう。創作版画という言葉を世に広めた人でもある。

栃木県河内郡姿川村(現・宇都宮市姿川地区:人口4万2千人)という地域コミュニティ(明治22年の町村制で成立し、昭和の初めには人口8千人ほど)の風景や暮らしをモチーフに、1925(大正14)年~1934(昭和9)年までの9年間(通巻で19号)にわたり、姿川村の中央にあった現・姿川中央小学校(当時は姿川尋常高等小学校)の教員仲間(これは欧米で言うところのアソシエーションにあたる)が1923年ころから学内に版画の同好会を結成し、教科の一つである図画工作の自由教育と連動しながら、自分たちの版画作品を『村の版画』と題して発表し続けたのである。地域コミュニティという観点からとらえれば、わが国初の創作版画集といえる。筆者は、明治22年の町村制導入後の姿川村の郷土誌や姿川大観、宇都宮市史などを栃木県立図書館等から取り寄せ、地域コミュニティ(姿川村)の成り立ちを研究分析した。

☆「村の版画」通巻18号(1932年収載)松岡勇の年賀状(筆者蔵)

版画制作の指導的立場にあったのが、村内を東西に通過する国鉄日光線鶴田駅前に寄宿(「村の版画」の教員メンバー篠崎喜一郎の家であり、姿屋というたばこ店を経営)していた当時(大正10年)宇都宮中学英語教師の川上澄生(明治懐古や南蛮趣味、ランプや時計を得意とする版画家、教師と版画家という2足のわらじを履いていた)であった。また川上澄生の版画仲間・東京の平塚運一や深澤索一などの参加もあり、レベルの高い版画集となっていた。特に川上澄生は『村の版画』の顧問的立場から同誌に毎回寄稿し村を意識していたものと思われる。姿川村の郷土誌によれば、このあたりに電気が通るのは昭和4年ころであり、川上がランプを版画の題材にするのはこの影響かも知れない。

*川上澄生の得意とするモチーフの麦酒杯とランプ(筆者蔵)

*南蛮風の人物や蛮船を得意として描いた川上澄生の作品(筆者蔵)

*『鈍刀』118号(1971年)に寄せる川上澄生の自画像・版画(筆者蔵)

しかし、『村の版画』の姿川村における存在、すなわちアソシエーション的立場は、昭和4年くらいまでで、それ以降は、まとめ役の小学校教師池田信吾の転勤により、池田の勤務校の宇都宮市簗瀬小学校内に事務局が移転し、簗瀬小学校内の版画社として、その体裁が整えられていくことになる。その時代背景には、初期発行時に山本鼎らの信州自由教育運動の影響はあったが、教師メンバーのたび重なる転勤によることと昭和4年以降世界的な大恐慌が相俟って、軍靴の足音が影響し、結社の自由が疑われるような社会状況になってきたことが、その廃刊(昭和9年に終止)を決定付けたらしい。

*川上澄生による姿川村の村童野球図・版画(筆者蔵)(ベルリン五輪への出品・銅賞受賞作:当時の五輪は文化芸術面も競技し、スポーツをそのモチーフとしていた)

さて小生は、長野県上田市で青春時代をすごし、当時から山本鼎に関心を持ち、市の山本鼎記念館に通っていた。ご当地の自由教育運動や農民美術運動にも関心を寄せていた。当時同人誌も出していた。また姿川中央小にも小学校4年から3年間在籍し、曾祖父以来4代にわたり、ここの卒業生でもある。そして『村の版画』11号に作品を寄せている当校の教員の一人・松本笑悦(のちに当校の校長となる)は、私の父方の祖母の弟、つまり大叔父にあたる。彼の印象は水色のリックサックを背負い、いつも自転車に乗ってわが家にやって来る普通の叔父さんであった。彼は植物学者でもあり、牧野富太郎博士が県内に植物採集に来ると、その案内役を引き受けていた。そしてご縁は続く、国鉄鶴田駅前の郵便局とそのお隣のたばこ屋、川上澄生が独身時代に寄宿していた鶴田駅前の朴花居など、付近のまちの残影が今でも私の脳裏に残っている(昭和30年代のころの鶴田駅前風景は、村の版画の1巻に掲載されている?)。小生には浅からぬご縁が、この版画集『村の版画』にある。

*国鉄鶴田駅前に住んでいたことが影響したのか、川上澄生が得意とする明治懐古の岡蒸気の図・版画(筆者蔵)である

*大正10年~昭和20年まで川上澄生が住んでいた鶴田駅前の朴花居はいまはなく、拡張した道路となっている

☆現在のモダンなJR鶴田駅(地番は西川田町)。その駅前から望む冬の日光男体山(黒姫山)は雄大である(地元姿川中校歌にも謳われている、黒姫山のすえ遠く♪流れも清き姿川♪)

『村の版画』は発行部数は、毎回20部~25部と少なく(素人が刷れる部数はその程度であると考えられる。これが身の丈でちょうど良い)、当時50銭~75銭(昭和5年の50銭は現在の二千円相当で映画の入場料相当か?)で販売されていた(売るというよりは教員たちの版画作品の発表の場で、身近な関係者に頒布していたようだ)。版画創作に参加した教員達も始めは姿川尋常高等小学校の教員を中心(教員は3年~5年で転勤する)に毎回数名から10名ほどで、女性教師の参加はその中に発見できない。参加する教師達の転勤で河内郡・宇都宮市内にその考え方、版画による自由教育のすすめは広がっていくが、池田の転勤により「村の版画」から「宇都宮の版画」へ、そして東京・中央への版画出品と、教師たちの技と視線は発展していくが、姿川村のアソシエーションとしての位置づけは逆に低下していったようだ。小生の大叔父は『村の版画』に専門外のためか、通巻11号に1回のみ参加している。しかし小生は、小さな村のアソシエーションを考える上で、たいへん興味深い、ご縁がたくさん詰まった身近なコミュニティ事例であると思っている。

*川上澄生の自信作『南蛮ぶり』。キセルを吹かすちょん髷男は前田(藤原)利家がモデルとか(筆者蔵:右帯の手彩ミスあり?、本来の赤が塗られていないホンマの1点もの)

☆川上澄生は戦後栃木県立宇都宮女子高(私の母方の祖母の母校)で教鞭をとったが、その近隣に居を構えた自宅のことを亜艶館(あびらかん)と呼んでいた(版画は筆者蔵)。小生もその女子高付属の県立みさお幼稚園に昭和30年代に入園したが、父の転勤で残念ながら途中で転園した。しかし、今も、みさお幼稚園の名前が付いたアルバムが手元に残っている。

*「村の版画」全巻を所蔵している宇都宮美術館。大谷石のプレートがモダンだ。

☆仮題「私と川上澄生」は、まだつづく

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